建石の碑文
表には「不許□酒□山門」
裏には「元文五龍次庚申春三月初五日、大槻朝枕居士、造建総門一宇、并竣此碑以永鎮山門」と記されている。
金沢市史 寺社編(金沢市役所 昭和48年)によれば『龍昌寺は五雲山と號す、裏五十人町に在り、寺記等に拠れば、永禄四年加賀小松城主丹波五郎左衛門能美郡八日市村に再興して、菩提所となしたれど、寛永中、前田利常小松城に退老するとき、寺地を収められ、地子地に居り、寺堂漸く敗壊せり、元文二年正月、住僧亮湛金澤に来り、今の地に新たに造営せり、此とき、加賀藩士前田修理の妻住僧牧庵に帰依し、其宅地の内を割いて寺地に充て、尚堂宇造営の費を捐てたりといふ、
本寺の山門は、前田修理の聟大槻内蔵允が建立したるにや、住僧牧庵は門前の建石に「元文五龍次庚申春三月初五日、大槻朝枕居士、造建総門一宇、并竣此碑以永鎮山門」と誌せり、然れど、山門は何時の頃にか朽廃して、今は亡し、』とある。