加州猫寺調査隊 その15   2008年3月29日

久しぶりの加州猫寺調査、本日のメインテーマは「越野政吉」。前回写真は出てきたもののまったくその人物の正体は不明のままです。

 まずどうやって調べるか。人名録のようなものがないか探しました。「会社銀行重役社員名簿」(大正14・1925)と金沢諸会社職員録(昭和6・1931,同10・1935,同12・1937)残念ながらまったくひっかかりません。次は戦後の「石川県人名鑑事業別大鑑」(昭和22・1947)ですがだめです。いちばん期待をしたのは「金沢市世帯主職業住所総覧」(昭和28・1953)でこれから金沢市内の各世帯の世帯主や住所、職業などがわかります。職業まで記載されている点では現在の電話帳より記載事項は詳しいものです。しかしこれにも「越野政吉」の名は見あたりません。昭和28年ならおそらくまだ存命のはずです。また当時のことを考えればたとえ2世代以上が同居していても家長として載っていていいはずです。これはどういうことでしょうか。考えられることは金沢以外に住居がある場合です。そうなってくるとちょっと手が出なくなってきます。残念ながら今回の調査では「越野政吉」に関してはまったく進展がありませんでした。あとは会社の「白山湯本舗」がヒントになるかもしれませんが、大きな会社ではないようなのでなかなか見つけにくいのが現状です。
 とにかく昭和28年当時、金沢市内に「越野政吉」は居住していなかったと思われることがわかったのはひとつの成果かもしれません。

 さて、大正10年の畜霊供養に関してもう少し記事はないかと探してみました。石川県立図書館には同時代の新聞としては先の北国新聞以外に朝日新聞と北陸毎日新聞のマイクロフィルムが保管されています。どちらも大正10年7月10日前後を探してみましたが、記事は見つかりません。どちらも大阪版の中に地方面があるといった体裁です。やはり石川県の記事を探すには北国新聞がもっとも役に立ちそうです。
 ところでなぜ越野政吉が石川県立博物館の検索に引っかかるかというと、「石川百年史」に大正5年の総選挙で候補者でもないのに得票があったということで記載があったためです。今回はそこまでアイデアが浮かびませんでしたが、この選挙の記事を調べてみると「越野政吉」に関して何かわかることがあるかもしれません。とにかく得票が2票も入るということは、ただの実業家という感じではなさそうです。次回はそのあたりから追求していきたいと思います。

やり直し選挙

メモ
大正四年の選挙のさいも横山、中橋の得票以外に候補者でない西永公平の一票が有効投票とされていたが、五年の選挙でも同様で次の記録となっている「中橋徳五郎 一二七五点、横井伊三美 七三六点、横山章 三点、篠原譲吉 二点、越野政吉 二点、西永公平 一点、無効 七点」。点とは票のことだが、横山、篠原、越野、西永の得票が無効とされていないところが現在とちがう。
       石川百年史(石林文吉 1972)pp..906-908より引用

  得票のあった6名について
中橋徳五郎(なかはし とくごろう1861−1934) 明治・大正・昭和の官僚、政治家、実業家 衆議院議員、大阪商船社長、日本窒素役員など多くの要職を歴任した
横井伊三美(よこい いさみ)  日本硬質陶器(現在のニッコー株式会社)の監査役に氏名があることからその関係者らしい。ニッコーのヒストリー第四編にその名前が見受けられる。それ以外にも石川県史に名前が見受けられる
横山章(よこやま あきら) 詳細は不明だが、金沢関係の資料には多く氏名を見ることができる。産業界で活躍した人物と見受けられる。
現在山中温泉にある「無限庵」(明治末期金沢市高岡町に当時の名工を集め建築したという武家屋敷の様式による数奇屋風建築物のうち代表的な大広間を大正中期に移築したもの)を建築した加賀百万石藩主前田家の家老・横山家十二代の分家横山章氏は同一人物と思われる(あくまでも推測です)。 石川県史にかなり名前が見受けられる
篠原譲吉(しのはら じょうきち) 詳細不明 石川県史に名前が見受けられる 
越野政吉(こしの せいきち) 詳細不明 合資会社「白山湯本舗」代表社員
西永公平(にしなが こうへい) 金沢の弁護士、実業家、政界では県会議長を務める




 今回金沢市の住居表示地図を入手してきたので、50年前の昭和31、34年の住居表示地図と比較し、現在も居住している方をピックアップして調査依頼の手紙を送ろうかとも考えています。比較してみるとほとんど転居してしまっています。それでも何軒か同姓の方がいますので少しは望みがあります。大正10年は87年前になってしまうので無理としても、昭和10年代の陶製の招き猫を出したころや戦後の比較的新しい猫寺の様子なら聞けるかもしれません。もしかすると猫も残っているという淡い期待もしてしまいます。
 著作権の問題をクリアーしていないのではっきりした大きな画像で出しませんが、この50年間で大きな変化の概略を知っていただくために比較の地図を掲載しておきます。 

                       龍昌寺付近の50年間の変化
  
 平成19年(2007年)     昭和31年(1956年)



 さらなる情報を求めて龍昌寺の兄弟寺でもある広誓寺(こうせいじ)での聞き取りです。途中でかつて情報をいただいた方のお宅の前を通過したが、表札がはずされていた。貴重な情報源がひとつなくなってしまいました。もっとも龍昌寺で教えていただいた方ですので転居先はわかると思いますが。

                      
                       残念、情報提供者が転居してしまった

 今回もアポイントなしでしたので残念ながら関係者にお会いできませんでした。こちらもおそらく住職が代替わりしてしまっているでしょう。どの程度の情報が得られるかはわかりませんが、蓄霊供養に関しては現在も続いているようですし、慰霊碑の前には多くの花がありましたので、このあたりから突破口が開けるかもしれません。

広誓寺はかなり大きな寺だ 広誓寺山門
←壁越しの畜霊供養塔には
多く献花が見られる

廣誓寺(こうせいじ)
廣誓寺は本源山と號す、下中島町九十九番地に在り、貞享二年上記の由来書に、慶安元年加賀藩士不破彦三建立し、雲龍寺十代白翁を開基とし、僧尊英をして住持せしめたりとあれど、一の寺記に、貞享二年五月、不破彦三は、其菩提所なる石川郡五郎島村眞言宗安養山廣誓寺の祠堂を移し、宗旨及山號・寺號を改めて、雲龍寺八代白翁の弟子傑外を開基とせなりといふ、
本寺の地蔵尊は、丈一尺五寸許の木像なれど、古佛にして、不破氏の元祖河内守光治の念持佛なり、子孫其造を当寺に納む、天明六年三月十一日の火災に、僧となりて化現し、防火に努めけるに依り、世人は火防地蔵尊と崇め、毎歳三月十一日、鎭火講と稱へて大般若經を轉讀すといふ、
     稿本 金沢市史 寺社編 (金沢市役所 昭和48) 元本は大正5〜昭和11 より引用


 早く手を付けないと、どんどん過去の様子を知っている方が少なくなってしまいます。少しピッチを上げて調査を進めて行かなくてはならない時期になってきました。