加州猫寺調査隊 その18 (2009年3月29〜30日)
加州猫寺調査隊も調査を始めて9年になってしまいました。
今回は途中で遠回りしてしまったため、金沢に到着したのはかなり陽が傾いた時刻になってしまいました。図書館の閉館まで時間がないので、旧龍昌寺近辺を久しぶりに歩いてみました。だんだんかつての龍昌寺があった街の面影もなくなりつつあるのが現状です。そのような中、驚いたことに龍昌寺の跡地にあったパチンコ屋もなくなってしまったのです。現在は更地で一部には歯医者などが立っていましたが、この跡地に大きな建物でも建てばますますかつての面影はなくなっていくでしょう。ついでに聞き取りができそうな家を住宅地図を見比べながら歩いていくと、かつてあった裏五十人町の表示があった家もすでになくなってしまっています。古い家はことごとく取り壊されたり、空き家になってしまっています。路地も含め道はそのまま残っているところが多いのでかつての住所の追跡だけはできるのがせめてもです。
西インター通り向かいから 正面は安閑寺 | 龍昌寺跡 | |
用水だけはいつまでも変わらない | 龍昌寺跡のパチンコ店駐車場(2000年) | |
龍昌寺跡のパチンコ店駐車場(2000年) | 正面が龍昌寺跡 | |
今もある増泉変電所(奥黒い塀) 左画像の白い車のあたりをかつて鉄道が走っていた |
左の白い建物は以前からあった。その右となりはパチンコ屋の駐車場だったところに建った新しい建物 |
パチンコ屋駐車場から西インター通り方向(正面は安閑寺) 2000年 |
別角度から 赤い屋根はとなりの安閑寺 |
「何しに来たかニャー」 旧裏五十人町猫 |
龍昌寺はかつて郭事務所からも寄進が多くあったようです。時間が遅くなってしまったのですが、近くの北郭・石坂遊郭跡を久しぶりに歩いてみることにしました。
こちらも売春防止法が施行されてすでに半世紀以上たっているため、残っている建物も老朽化が進んでしまっています。また売りに出されているものもあり近い将来消えていく運命にあるのかもしれません。(北郭・石坂遊郭付近を歩くへ)
暗くなってきたので、夕食を食べたて、どこかで一泊。カーナビで調べると近くにある陸上競技場の駐車場が使えそうなので利用させてもらうことにします。
昨夜はわからなかったのですが、洗面所も近いし快適な宿泊場所だ。
9時の開館と同時に石川県立図書館に向かう。今日は「越野政吉」の追跡調査の予定。期待した写真帳は残念ながら空振り。その他会社関係の資料も調べるがお手上げ状態になってしまいました。金沢の住宅詳細地図が1960年代の半ばから揃っていたので、こちらもコピーすることにしました。西インター通りができる前後の龍昌寺付近の変遷がよくわかります。
この近辺に詳しい、「金沢市西南部の歴史」の著者の園崎善一氏の消息をうかがうと、残念ながら2004年に亡くなられたとのことでした。私が初めて石川県立図書館に行ったころはよくお見えになっていたということでしたし、図書館の職員の方のお話では亡くなられる3・4日前にも、お元気な姿を見かけたということなので突然のことだったのでしょう。この旧龍昌寺近辺の地域の郷土史のエキスパートだった方だけにお会いして情報を得ることができなかったことが悔やまれます。
結局この日は7時間程度飲まず食わずで調べていたことになってしまいました。首を前に突き出した状態で文献にあたっていたので頭が痛くなってしまい、そろそろ退散しようか。
もう夕方になってきたので今回の調査は打ち切り、次の目的地中野ひな市へ向かうのでした。
今回成果のなかった「越野敬吉」に関しては、次は実業家でありそうなので産業や政治ということで別の方面からアプローチしてみようかと考えています。
龍昌寺近辺の地図に関してはゼンリンなどの住宅地図は許可を得なくてはならないが、古いものに関してはすでに50年以上過ぎているので今回少し鮮明にして掲載することにしました。その中で見落としていたのですが、大正12年(1923)にはすでに龍昌寺(猫寺)として地図に載っています。大正10年に畜霊供養塔の除幕式が行われていますので、やはりその頃にはかなり有名な存在だったのでしょう。
大正12年(1923) 龍昌寺(猫寺)の表示がある (広域を見る) |
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昭和31年(1956) 金沢市住宅明細地図(日本地図編集社 1956) まだ北郭があるころ 現在の地図と見比べて歩くにはこの地図がわかりやすい (広域を見る) |
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昭和34年(1959) 北郭がなくなった翌年 (広域を見る) |
北郭・石坂遊郭付近を歩く
金沢にはいくつかの花街がありました。東郭と西郭は古いのですが、北郭はそれに遅れてできました。しかし金沢の発展と共に場所の移転が検討されました。そして移転した先が龍昌寺の近くだったのです。かつては瑞泉寺のあたりに検番所があったそうです。そして形態が変わりながら売春防止法が施行される昭和33年まで続きました。すでに同法の施行から50年以上たちかつての面影はだんだん失われてきています。しかし龍昌寺の復興もこの遊郭と密接に関係があり、ある時は寺の資金面で、またあるときは遊女達の心の支えとなっていたようです。実際に現在龍昌寺に残されている賽銭箱には「施主北郭新駒」とあり茶屋からの寄進であることがわかります。また畜霊供養塔の台座には国会議員や市長と並び東郭事務所、西郭事務所、主計町事務所、愛宕郭事務所、石坂郭事務所、北郭事務所が名を連ねています。それだけ関係の深さを知ることができます。
北郭の一部は西インター大通りの開通でなくなってしまいましたが、現在でも老朽化してはいるもののかつての姿をうかがい知ることができる建物が残っています。
なお、これらの写真は筆者の主観で撮影したもので間違いがあるかもしれません。また時代により○○遊園などと呼称した地域もありますが、ここでは適切ではないかもしれませんがすべて遊郭という言葉で統一させていただきます。
かつての面影が残る建物 | ネコ? | |
凝った装飾 | 玄関のタイルにもこだわりが |
かつての遊郭の建物を利用した料理屋などが並ぶ。第三飲食街という表示があった。これはかつての遊郭内なのかその周辺にあった地域なのか定かでない。
このあたりも当時の名残か周辺の飲食街か? | 狭い路地にかつては店があった | |
このつくりも当時の店を忍ばせる | ||
売りに出されてる物件も多い | 一般住宅とは違う派手な玄関タイル |
売りに出されている物件や無人の建物も多くある。今後持ち主が変わっていけばこれらの建物も取り壊される運命にあるのかもしれない。
比較的よく雰囲気が残されている建物 | |
漆喰の装飾と | こだわりのタイル |
観光地(景観地)として保存されている地域もあるが、猫寺と関係のあった地域にはその気配はない。建物が残っている内にもう少し丁寧に記録しておかなければならないと感じた。こんどもう少し条件のいい時間帯にじっくり地図と見比べながら記録していこうと思う。