「加州猫寺を探る」 その4
加州猫寺第4次調査 現地調査2002年3月28日(富山)、29日(金沢)
大正期加州猫のふるさと富山
加州猫寺の調査も今回で第4回目を迎えました。東京を出発したのは3月28日の朝で一日目はゆっくりと途中の行程を楽しんでいくことにしました。もう一つ富山土人形に関して引退した渡辺さんから引き継いで制作しているとやま土人形工房で何か情報を得られないか寄っていくという目的もありました。
学生時代、化石調査のフィールドとしていた富山県と新潟県の県境を流れる境川(大平川)の上流をちょっと見に行ったり、付近のヒスイ海岸を散策しているうちにかなり陽が傾いてきてしまいました。詳しい地図を持たずの旅なので住所のみをあてに富山土人形工房に到着したのはもう閉館まぎわでした。
人形工房 | 渡辺さんが使用していた型 | 招き猫の小型の型 |
富山土人形は3代目の渡辺信秀さんに後継者がいないことから、昭和58年より一般公募で集まった人達が人形制作の技術の受け継いできました。93年12月には現在のとやま土人形工房が完成し、渡辺さんが平成9年に引退してからはこのとやま土人形伝承会の方々によって制作が続けられています。 ところでこの工房で使用している型は渡辺さんが実際に使用していたものです。この中の小さい招き猫は大きさこそ違え加州猫にひじょうに似ている気がします。そもそも招き猫の顔は似ているようでもちょっとした凹凸の違いなどでけっこう顔つきなどが変わってくるものです。鼻から口あたりの凹凸の様子は両者そっくりです。余話でも書いたように黒の模様の入れ方もそっくりです。しかし現在制作されている大きな招き猫は顔つきが違います。もしかするとかつて加州猫の基となった小型と同じ顔つきの招き猫があったのでしょうか。型は全部保存されているようですが、どうも加州猫と同じような型は現存しないようです。「とやま土人形伝承会」にいちばん古くから関わっているという方にいろいろとお話をうかがいましたが新しい事実は浮かび上がってきませんでした。 この日は輪島まで行き、到着が遅くなったので朝市駐車場で車中泊です。 |
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右が渡辺作、他の2点は とやま土人形工房作 |
龍昌寺4回目の訪問
今回は初めて龍昌寺とアポイントをとっての訪問です。昨年は思いがけない深い残雪で車に積んであった長靴を履いての訪問でした。これまで使っていた長靴が水漏れを起こしてきたので、今回は途中で長靴を調達しての訪問となりました。
翌朝、朝市で食料を調達して時間を稼ぎながら頃合いを見計らって訪問です。現地に着くと予想に反して雪が全くありません。拍子抜けです。昨年あれだけ雪に足を取られながら登っていった山道を今年は車で上れてしまいました。いつもより早い時間の訪問にご住職の奥様も驚かれていました。ちょうど春休みにもあたるのでご家族全員揃い、奥様のご両親も来られている中に割り込むという状況になってしまいました。
奥様も何か参考になりませんかと金沢の歴史に詳しい方の新聞記事を見せてくれたり、いろいろ対応していただきました。その中でも何かわかるかもしれないと、金沢のご親戚?に連絡を取ってくださりました。いろいろとお話を伺いながら、いよいよ今回の作業のメインである由来書石板の拓本とりです。しかし石板は安山岩でできた荒い岩肌であるのと同時にけっこう風化が進んでいます。拓本をとってもかえってわかりづらい状態になってしまいました。これではどうしようもないと言うことで早々と拓本とりをあきらめ、いろいろな角度からの写真撮影と肉眼観察で読みとることに切り替えました。
また、ご住職の記憶もいろいろなことが甦ってきました。また奥様からもいろいろと今までになかった話しも飛び出してきました。
出てきた事実を要約すると次のようになります。
@先代のご住職は龍昌寺移転後隠居して寺の歴史をまとめようとして資料収集をして準備をしていたが、完成することなく準備途中で亡くなられた。
A世襲で住職をつとめたのは先代の二十世村田愚光氏からで、畜霊慰霊碑に名前のある十八世禅明和尚をはじめ皆総本山?から任命されて住職に就いていた。
B禅明和尚は大正の大法要の当時まだ若く、龍昌寺に来てあまり年数がたっていなかった。畜霊供養もデモンストレーション的な要素もあったのかもしれない。
C戦時中は軍馬の慰霊などもおこなった。またペットの猿を供養したこともあった。戦前金沢市内で動物の供養をしていたのはここだけだったのではないか。
D金比羅権現祭のときには動物供養をおこなっていた。しかしその時に招き猫を頒布したことはない。動物供養はその後も続いた。
E戦前の本堂の工事はたしか昭和11年ころであったはず。大改修にともない、当時檀家は少なかったので近くの石坂遊郭などに寄進を頼んだ。その際、寄進の額に応じいろいろな大きさの招き猫を渡した。寺の金比羅権現像の脇にはいろいろな大きさの招き猫が列んでいた。
F由来を刻んだ石板は慰霊碑の下にはめ込まれていた。もうすでに現ご住職が子供の頃にはかなりボロボロになっていた。
しばらくすると先ほどの金沢の親戚の方から電話があり、資料が出てきたのでFAXで送るという連絡が入りました。送られてきたFAXを見るとまさに古瀬戸タイプの招き猫の絵が印刷された『猫寺由来書』でした。内容を見ると石板から解読した文に似ています。この由来書が今回の大きな進展の手がかりとなりました。石板で部分的にしか見えない文字の判読にたいへん役立ち、石板の文の判読がかなり進みました。これまで石板中の「・・・大火・・・」の部分はおそらく「大火事で死んだ・・・」動物のことをいっているのだとは予想できますが詳しい内容はわかりませんでした。今回これは宝暦9年の大火で死んだ家畜を持ってきて供養したまさに畜霊慰霊の始まりを書いたものであることがわかりました。石板の詳しい写真撮影と由来書の併用で調査はかなりの進展を見せました。
いっしょに昼食をごちそうになった後、送られてきたFAXには鮮明なところがあり、現物も見たくなったので連絡を取っていただき金沢まで行くことにしました。その方もお忙しいようなので住所を教えてもらいすぐに出発しました。
昭和の「猫寺由来書」入手
そのお宅は金沢市元町にありました。道路沿いは再開発され道が広がり大きな店舗が列んでいます。住所はわかっていてもだいたいの場所しかわからないので、近所のスーパーに車を停めて捜すことになりました。ご住職の奥様に地図を書いてもらっていたのですぐに見つかりました。うかがってすぐに用件を切り出しました。対応していただいた奥様も使っていただけるのならと、何と由来書の現物をいただくことができました。そしてその時うかがったことを要約すると次のようになります。
@戦前の寺は昭和11年ころ本堂の大改修(建て替えではない)をおこなっている。
Aこの「猫寺の由来書」は猫寺の由来を尋ねる者が多いのでその解説のために作成した。招き猫に付けて配布したものではない。
B今でも旧龍昌寺近辺の古い家の神棚には加州猫寺の招き猫を奉っているところが結構あるのではないか。
C先代が準備していた龍昌寺の歴史の資料は引っ越すときたぶん持っていったはず。
D動物供養は現在でも龍昌寺の兄弟寺で引き継がれおこなわれている。
E土人形の招き猫に関しては記憶がない。
「何か思い出したら」と連絡をお願いして名刺を渡し、金沢を後にして中野ひな市へ向かいました。
事後処理
以下は今回入手した『猫寺由来書』を現代語訳?したものです。原文そのものは画像をご覧ください。
猫寺の由来書 金沢市石坂の裏五十人町にある五雲山龍昌寺は俗に猫寺と称せられている。その草創は詳らかに伝わってはいないが永禄年中、丹羽五郎左衛門長重が加賀の小松城の城主だった時、小松八日市に再建して位牌所菩提寺となっていた。また長重は護身佛として崇めていた金比羅大権現のために寺内に堂宇を起こして安置し奉り日夜参詣崇拝されていたが、丹羽が奥州二本松に封を移した後は檀徒も四散して、住職のいない時もあって寺堂は大破に至った。故元文二年(1732年)十一月時の住職牧庵和尚は金沢へ移転の儀を願い出て翌年五月に許可され、しかして前田藩の老臣前田修理の内室は牧庵和尚に帰依の念厚く、その為に修理の下屋敷の地内を寄進し今より二百年以前に建てられたのが現今の地である。四世中興大信和尚は道徳堅固な学者であって道俗の帰依するもの頗る衆く極めて慈悲心に富んでいて殊に畜霊を憐れみ愛せられたので従って美談や逸話等は多く伝わっている。 その頃、石坂瑞泉寺の門前に実直な夫婦が住んでいて日頃大信和尚に帰依していたが年老いても吾子がなかったので猫を飼い寵愛していた。ある夜その猫が枕頭に来て「吾死せば龍昌寺の境内に亡骸を埋め塚を建つべし、来り詣づる者あらば吾必ず其の人の所願成就を守るべし、夢々疑うべからず」と云ったかと思えば是南柯の一夢であつたが、翌朝起きてみれば猫は果たして死んでいたので奇異の思いをしながら屍を持つて行つて大信和尚に回向を頼んだ。和尚も亦前夜の夢に頭に兜巾を冠り肩に九條の曼陀羅の袈裟をかけた者が顕れて、猫が老夫婦に語ったのと同じ意味のことを語り聞かされたので、扨(さ)ては金比羅大権現の化身であったよと心付き老夫婦と奇縁を語り合って早速に其の屍を?め塚を築かれた爾来この事を伝え聞く者はその塚に詣でて願望の空しからざるを喜んでいた之が為に俗間では猫寺と呼ぶようになって金沢の名所に数えらることに至ったのである。 宝暦九年(1759年)四月市中の大火に人畜の死傷夥(おびただ)しくあってその愛していた家畜の屍を持って来て埋めた人もあった。これが例となって安永二年(1773年)四月大信和尚が示寂された後もその事が行われて家畜類を葬り頓證菩提の冥福を祈る人々絶えずそのために今日に至るまで毎年金比羅大権現大祭には畜霊供養の法要を厳修する慣例となって居るのであります。 抑々社寺は神仏を祭る霊堂である人間には無論霊魂があり畜類にも同じく霊がある。神仏信仰の霊感は上下を通して必ず感應道交するものである。その所似を釋尊(釈尊)は諸経に御説きなされてあります。 当寺奉安の金比羅大権現は霊験最も顕著にましまして祈請に應じて利益を蒙る輩は従来より挙て算へ難し信仰の力は不可思議にして響の声に應ずるが如し感應の功徳空しからずと是れ即ち仏陀の金言であります。茲に禿筆を以て猫寺の由来を記事するものなり。 昭和十一年吉春 龍昌寺住職 村田愚光 謹白 |
画像をクリックすると大きな画像が出ます (300kBあります) |
石板の由来書 (画像をクリックすると拡大した画像を見られます)
石板2枚目 後半部分 | 石板1枚目 前半部分 |
石板の判読は自宅に帰ってからです。今回はいろいろな角度から、しかもかなりアップの写真を含めて多くの写真を撮影しました。その甲斐あってかかなり判読が難しいと思えた部分も見えてきました。
最新版石板判読
石板の由来書は現在ここまで判読できました。第3回の報告と判読が異なっている文字もあります。さらに多少判読が怪しい文字もあります。また、1枚目の「瑞□寺」の□は文字が読みとれませんが、これは瑞泉寺であることは明白です。このように類推から文脈が読みとれる部分も多いのでこの由来書のほぼ全体像はつかめてきました。また自宅で画像処理することにより拓本と同等に近いものができ、かなり解析が進みました。追加判読や訂正があったときは入れ替えます。
碑文の概要は次のようになります。
猫塚は中興大信和尚の時代に瑞泉寺の近くに住んでいた老夫婦がある夜、かわいがっていた猫が死んだら龍昌寺に死体を埋葬し塚を建てて詣れば諸願成就がかなうという夢を見た。翌朝猫は死にこのことを大信和尚に話すと和尚も同じような夢の中に金比羅大権現が姿を現したので共に奇異に思い、猫を葬り塚を建てて詣った。信仰者は頼望に詣った。宝暦の大火の際に死んだ家畜を葬った縁もあり、それをもって招き猫寺と称した。しかし住職が居ない時代もあり畜霊供養も中絶してしまった。現住職禅明和尚は大信和尚の遺志を継ごうとしたが少ない檀家にあってそれも思うようにならなかった。そこで政吉君に依頼し(同氏は奔走して寄進を集め)畜霊供養塔を建てるに至り、大信和尚の継がんとする信者の志によって除幕式を行い、大法要を行って猫塚を永久に伝えることとなった。 |
不鮮明な部分は昭和の由来書を多少参考にしているので内容的には似たものとなっています。ただ昭和の由来書にはない政吉なる人物が供養碑の資金集めに奔走したことが刻まれています。これは現在丘の上にある畜霊供養塔に名前の残る『越野政吉』であることは疑いない(越野政吉氏がその前の一文「白山湯本舗主」であるのかは定かでない)と思われます。昭和の由来書にはない招き猫寺という文字が各所に見られます。「招□□寺と称す」は明らかに「招き猫寺と称す」です。しかし1700年代の後半に招き猫があったかどうかははなはだ疑問です。しかし第1次調査報告で指摘したように供養がおこなわれた大正年間にはすでに「猫寺」と共に「招き猫寺」の通称もかなり一般的だったのはもう確実です。大正の大法要では猫寺という文字は土人形の背面の『加州猫寺』にしか見られず、それ以外は碑文も新聞もみな『招き猫寺』を用いています。当時は『招き猫寺』の方がむしろ一般的だったのかもしれません。
今後の課題
今回出てきた昭和の由来書には猫寺の文字は出てきますが招き猫は出てきません。しかしそこに印刷されている招き猫は古瀬戸タイプの招き猫であることは疑う余地がありません。しかしこの由来書は招き猫に添付されていたものではないといいます。もしそれが記憶違いでないなら本堂の改修(完成)は前年の秋である可能性もあります。さらに寄進依頼で制作された招き猫であるならば制作年代はさらにもう少し前の可能性もあります。どちらにしろ昭和の招き猫とこの由来書は同年代のものであることは間違いないと思います。今後、昭和の加州猫の正確な年代を割り出すため再度当時の新聞をあたってみる必要があります。
また、大正時代には上記のように招き猫寺の通称が一般的であったとはいえ、それ以前の龍昌寺にまつわる招き猫の足取りはプッツリ途切れています。「猫寺」がいつ「招き猫寺」になったのか、調査方法はまだどうしたらよいのか見当が付いていません。(龍昌寺でも明治の年号の入ったものは見ていません。大正・明治の新聞を捜してみる方法もありますが・・・。)
4月の上旬に金沢市在住の人形作家MさんからHPを見てメールで情報がありました。骨董屋にこの加州猫寺の昭和版招き猫があるというのです。
メールの一部を紹介すると次のようになります。
先日、よく行く骨董屋さんで「加州猫寺招き猫」を見かけ、復刻版が手元にあるだけにびっくりしました。 骨董屋のおじさんは「わしらはキツネ猫と呼んどるんや」と話してくれました。復刻版よりちょっと小さかったでしょうか・・。 |
その後骨董屋さんに尋ねてみると高さは12cmあるそうです。私の持っているものは14cmなので確かにMさんの言うとおりちょっと小さいわけです。これは興味を引かれます。また骨董屋の話ではいろいろな大きさの加州猫を所有している方を知っているとのこと。ぜひ骨董屋さんに口利きをしてもらい見せてもらおうと思っています。金沢あたりの骨董界では時々出回っているものなのかもしれません。もっとも金沢以外では出にくいかもしれませんが。これからは骨董屋も調査の情報源の一つとなりそうです。それにしても「キツネ猫」とは。そんなにキツネ顔でもないと思うのですが・・・。
次の第5次調査ではとりあえず原点に戻って、元龍昌寺のあった裏五十人町と現在の動物供養が引き継がれ行われている龍昌寺の兄弟寺(場所は判明している)あたりから調査を始めてみたいと思っています。そして例の骨董屋も。
続 く 2002年5月8日