河村目呂二『芸者招き』その後
かつて「ねこれくと」上でも特集を組んだ、大正から昭和にかけての彫刻家で随筆家、そして何より招き猫(猫)コレクターとして有名な河村目呂二の芸者招きですが、資料不足によりその後まったく加筆していませんでした。
しかし平成18年3月、思わぬ情報がメールで飛び込んできました。「ねこれくと」経由のメールでしたが、あまりの添付ファイルの容量に最初は迷惑メールかと思いました。しかし内容を見てびっくりしました。
それは河村目呂二に縁のあるUさんと清原ソロさんからでした。インターネット上で「芸者招き」から「ねこれくと」にたどり着き、その中の記事を読んでのメールでした。メールによれば、
昨年、河村目呂二が生前所属していた美術団体「構造社」の全国展が開催されることになり、目呂二実娘清原ソロさんが、美術館関係者より作品出展の要請を受けていたのだそうです。しかし、ソロさんは高齢でもあるので、Uさんは代理として収蔵されている作品の整理と今後の調査、管理を託されているのだそうです。芸者招きをはじめとする目呂二の作品の多くが現在もしまいこまれたままになっているのだそうです。今回の構造社展は正式には「構造社 昭和彫刻の鬼才たち」と題し、大正から昭和の初期にかけて活躍した構造社という美術団体に所属した芸術家の展示で、宇都宮、札幌、松戸と3ヶ所で開催されました。残念ながら情報未入手だったため、見逃してしまいました。会場では芸者招きをはじめとし、目呂二人形やスケッチなどいろいろと展示されたようです。
前述のように多くの収蔵品はまだ未整理で、これから学芸員の方と作品の調査と整理を進めるのだそうです。その作品の中から猫に関係する画像を送っていただきました。また、当HP「芸者招きの謎」で疑問に思っていたことに関しても「ねこれくと」の画像を清原ソロさんに見ていただき、見解を送って頂きました。
ところで「芸者招きの謎」で疑問として出したものは次のような項目です。
芸者招きの疑問
・いったい何のために作られたのか
・いつごろ製作されたのか
・型は2種類あるのか(現実に2種類あるが両方とも目呂二の作なのか)
・どの程度の数が製作されたのか
・誰が作ったのか
(すべて目呂二の作なのか。それともプロトタイプを何体か目呂二がつくり、その他にある程度の数、量産したのか。
その疑問に対して寄せられた回答は次のようなものです。(赤字が清原ソロさんによる回答)
Q1 いったい何のために作られたのか 百貨店等での頒布会用に(および本人夫婦の趣味もかねて)制作された。 |
実際に目呂二はデパートでの博覧会に出品したり、イベントをおこなったりと
Q2 いつごろ製作されたのか 1920年代(大正末〜昭和初期) |
Q3 型は2種類あるのか(現実に2種類あるが両方とも目呂二の作なのか) パターンは2種類以上あったようだが定かではない。 |
Q4 どの程度の数が製作されたのか 種類・数量も、今となっては不明。 |
Q5 誰が作ったのか(すべて目呂二の作なのか。それともプロトタイプを何体か目呂二がつくり、その他にある程度の数、量産したのか。 作りかたは、目呂二が型をとったものを素焼きにして、1点1点手仕事で彩色をおこないました。彩色は目呂二・スノ子夫妻と、夫妻の後輩にあたる東京美術学校・女子美の学生が手伝いに来ていたこともありました。 |
さらに「ねこれくと」掲載の「痴娯の家」所蔵の芸者招きについてもご意見をいただきました。
「痴娯の家・芸者招き」について Uさんによれば、清原ソロさんに見ていただいたところ、このタイプの芸者招きはちょっと記憶にないとのことです。実物を見てみないとわからないが、むしろ目呂二と近しい方の作品ではないかとの意見です。 私見と、ことわっていますが、メールをいただいたUさんの見解はこれは目呂二の作ではないかとのことです。その理由としては下書きやデッサンに大変似た表情のものがあり、また、美校彫塑科出身らしい肉感的なフォルム、そして別シリーズの「目呂二人形」に着物の色柄が似た物があることなどをあげています。 |
ちなみに右画像の芸者招きの右下に一部写っているのは「目呂二人形」ではないかと思われます。(=^・^=の見解)
左下の写真は収蔵品としてしまわれていた芸者招きです。「痴娯の家タイプ」とは異なり、左手の位置が耳の高さまでしか上がっておらず、右手は床にまで達していません。顔はふっくらし、口を少し開け気味の自性院タイプです。羽織は四つ葉のクローバを描き混んだモダンな造りです。先の「構造社展」の図録に掲載されている芸者招き(下右:許可を得ていないのでアップでは掲載できません)はやはり「自性院タイプ」ですが着物や羽織の色や柄が異なります。羽織は一見黒一色にみえますが、薄い模様が入っています。一点一点手彩色で、多くの人が関わっているので、おそらく着物や羽織の柄はいろいろなパターンがあるのでしょう。
この原稿を書いている途中で雑誌「猫の手帳」2006年5月号に芸者招きの写真があるのを見つけました。掲載されていた芸者招きは自性院タイプで青地の着物を着ており、着物の柄は図録と同じですが着物は青地で異なる彩色でした。次々と出てくる芸者招きの写真ですが、やはり予想通り多数の彩色パターンがありそうです。
芸者招き | 痴娯の家 所蔵 | 「構造社展」図録 |
猫の手帳2006年5月号 |
もう一つの招き猫
送られてきた資料の中に芸者招き以外にもう一つ招き猫の画像がありました。これは初めて見る目呂二作の招き猫です。どこかで見たような招き猫だと思ったのですが、思い出せません。後から資料としてUさんが「構造社展」の図録のコピーを送ってくださいました。それを見ると灰皿とあります。「そうだ!灰皿といえば・・・」。今戸人形の火入れです。残念ながら江戸東京博物館の「今戸人形」の図録には小さなモノクロの写真はありますが、詳細なスケッチと写真は掲載されていません。古いものは持っていませんが、吉田義和さんが復元している「いまの人形」なら手元にあるので、取り出して比較してみると挙げている手が逆ですが構図はひじょうに似ています。大きさもほぼ同じです。目呂二作の猫は裏の開口部の形状がわかりませんが、おそらく招き猫マニアの目呂二としては当然古い今戸焼きの招き猫の火入れも持っていたでしょうから、それを参考に目呂二流に仕上げたのではないでしょうか。
※火入れ タバコの火種などを入れておく器
参考 吉田義和作「いまの人形」の火入れ |
送られてきた資料には芸者招きの口元や仕草に似た擬人化された猫の絵が多数含まれていました。三毛柄の振り袖などは土人形にしたらおもしろいと思います。この三毛柄の振り袖の猫を見ていると芸者招きというよりは「猫娘」といいたくなるような表情です。案外芸者招きのアイデアの発端もこのような「猫娘」だったのかもしれません。なお、「猫珍奇林画」とありますが、「猫珍奇林((みょうちきりん)」とは目呂二の号のことです。
Uさんのメールの最後に「猫だけでなく、全国の銘菓の画帳、里山の自然を描いた俳画やスケッチなど、どれも美しく、やさしく、いとおしく、作品とともにその魅力的な人間像をもっとみなさまに知っていただけるよう願っております。」とあります。
残念ながら私の手元には「目呂二抄」(アポロン社 1974)という随筆とスケッチ集しかありません。その中に散りばめられているスケッチを見ていても軽井沢の自然の中で時の流れと共にゆったりした生活をおくっていた様子をうかがい知れます。
芸者招きの作者として招き猫ファンには有名な河村目呂二ですが、それ以外に関しては一般にはほとんどその創作活動は知られていないのが現状ではないでしょうか。今回調査をおこなっている収蔵作品などを元に、ぜひどこかでまとまった作品展・回顧展などが開催されることを願っています。ちょうど今年は目呂二生誕120周年に当たります。時期としてもちょうどよい年のように思います。
※最近出た「猫の手帳」2006年5月号に「平成猫バカ列伝、特別編」として河村目呂二が2ページにわたって紹介されています。このような特別編が組まれたのも、おそらく今回の構造社展への出品が関係しているのではないかと思われます。
なお、ここにも芸者招きが紹介されていますが、この着物の彩色は青系統でまた異なります。何体制作されたかはわかりませんが、もしかすると一体一体すべて彩色が異なるのかもしれません。
なお、いただいた画像資料はすべて下の「目呂二ミュージアム」にあります。
目呂二に関してはすべて目呂二ミュージアムに集約しました。