目呂二が東郷彪に贈った黒猫 

 東郷平八郎の長男の東郷彪は黒猫の蒐集家としても有名であった。

 以前から『吾が父を語る』(東郷彪、1934)という書籍の存在はトビウオの表紙で知っていた。しかし東郷平八郎に関して書いた書籍に黒猫荘のことが書いてあるとは思ってもみなかった。たまたまネットオークションに出品されていた画像に目次も掲載されていた。よく見ると「黒猫荘の由来」や「黒猫荘の宝物」などという項目があった。気になり価格も送料込みで400円と安かったのでポチッとやって購入した。古書店にも出ているが今回は格安であった。
 この本は1934年(昭和9年)発行でかなり短期間に版を重ねたようだ。 

東郷彪は1969年に亡くなっていますが著作権が切れる1年ほど前に著作権保護の期間が70年に改正され、2039年末まで延長されました。 
したがって現在まだ著作権は切れていません。出版社に問い合わせましたが連絡先は不明とのことです。
正式に掲載許可を申請したいので著作権者の連絡先をご存じの方はお知らせ願います。

 東郷彪と妻百合には3人子どもがおり、長男の一雄(いちお 1919-1991)が東郷家三代目を継いだ。一雄には3人の子がいたがすべて女子で、長女喜久子(1948-  )は婿養子を迎え東郷家の四代目となった。おそらく著作権者はおそらく東郷喜久子が持っていると思われる。その長男良久(1971-  )や次男平(1973-  )、そして喜久子の孫の氏名も確認できているが、四代目以降はおそらく一般人として生活していると思われるので確認が難しい。東郷彪の弟、実(1890-1962)、の孫宏重は自衛官として勤務したのでイベントに参加した記録が残っているがそれ以降については不明である。
 東郷彪の著書はこの1冊しか確認できないのでおそらく著作権者もあまり意識していないと思われる。東郷神社あたりでわからないだろうか?

 東郷平八郎:(1848-1934)日本の海軍軍人。海軍元帥大将
 東郷彪:(1885-1969)東郷平八郎の長男。官僚、貴族院議員


吾が父を語る  
『吾が父を語る』
(東郷彪、1934 実業之日本社)


書籍は箱に入っていたためか
国会図書館所蔵品より状態はよく、
表紙の色もひじょうに良い状態であった
なぜトビウオなのかはわからないが
海軍に関係するのか?
 


 昭和9年(1934)に発行されたこの書籍は東郷平八郎没後の出版で、軍人の側面もあるが家族から見た晩年の東郷平八郎のエピソードが一話3~4ページの短い文章で綴られている。

「黒猫荘の由来」
「黒猫荘の宝物」
および「父のユーモア」も
黒猫荘に関する話題であった

「黒猫荘」はWikipediaでは
「こくびょうそう」と表記されているが
本著では「くろねこそう」と「こくびょうそう」の
2種類のルビがふられている

 
目呂二が黒猫荘2000体記念に贈った
宝珠の上に黒猫が座る貯金玉
「瑞祥」の文字は東郷平八郎による
東郷彪の黒猫荘

額と掛け軸の文字は東郷平八郎書
藤田嗣治より贈られた
ペルーの黒猫置物

後ろの紙は
藤田によるものと思われる
添え書き
箱書きの「慈愛」は東郷平八郎書
東郷彪の猫と
東郷平八郎による
「如猫」(ねこのごとし)の書

最初は「似猫」(ねこににたり)で
あったらしい
東郷彪が黒猫を描くのを待っていた
エピソードが「父のユーモア」の中で
語られている
この絵はかなり多く描かれたようである
またこの黒猫も
東郷彪のトレードマークともなった
「河村目呂二の手紙展」より 
『吾が父を語る』は国会図書館のデジタルコレクションで
見ることができる
 東郷彪 著『吾が父を語る』,実業之日本社,1934
. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1876481 (参照 2024-08-03)


 東郷彪の黒猫荘は没後、母校の東京農業大学の厚木キャンパスに移築された。
 コレクションの黒猫に関しては今後追加する予定。

 以前公開したことはありますが、猫は猫を呼ぶと言うことで東郷彪のところへもいろいろな方から猫が集まっていた。そのような中で、10年以上前に明治から大正にかけての手紙を読み解いているFさんから貴重な資料をいただいた。招福子(木子七郎)から僕満子(小島勇之助)へ送った葉書で黒猫荘に関しても書かれているので再掲しておく。

 
     
   
     






その後の黒猫荘と黒猫たち

 東郷彪は東郷平八郎の死後貴族院議員を継ぎ、貴族院が廃止される昭和22年(1947)まで議員を務めた。その後、元衆議院議員鈴木仙八が預かり、鈴木仙八の後援者であった村村松榮に受け継がれた。村松は郷土の長野県松代に温泉旅館「寿楽苑」を開業した。引き継いだ黒猫コレクションを納める場所を探し「厄除け招福」祈願のため昭和53年(1978)に旅館前に「黒猫大明神」を建立した。「黒猫大明神」の額は東郷神社二代目宮司大貫良夫(1909-1991、在職:1947-1984)による書。温泉旅館は二代目に引き継がれ黒猫大明神の管理も引き継がれた。寿楽苑は2015年に閉館してしまったが、グーグルマックには黒猫大明神の名称も見られ、ストリートビューを見ると「黒猫大明神」には令和の奉納幕が掛かっていたので管理はされていると思われる。
 黒猫荘と東郷彪コレクションに関しては少し古いが「福の素」(2002)中の「黒猫大明神」が最も詳しいと思われる。

 ※戦後、GHQの接収を避けるため黒猫たちを鈴木仙八に預けたという説と譲ったという説があるが真相は不明である

Googleマップで見る「黒猫大明神」  
2012年(平成24年)6月
まだ寿楽苑が営業していた時代
2022年(令和4年)9月
すでに廃業後
令和の奉納幕があり
除草もされて管理はされている

ひな市を開催している
中野市からも近いので
ぜひ訪問してみたい
上の画像の拡大
拝殿の前に2体黒猫がある
かなり前から置いてあるようだ

左の黒猫は常滑の冨本人形園の故冨本親男に
依頼があり制作されたもの
胸には右のような文字が刻まれ、大小あったようだ

NAHKI Blog 黒猫大明神
素晴らしき哉、我が人生 黒猫大明神
黒猫大明神 ふじむらなつきの犬日記、たまに小話

その右隣は典型的な常滑型の黒い招き猫だが
これも冨本人形園の可能性が高い


 鈴木仙八(1899-1967):東京出身の政治家。戦前は東京市議、府議、戦後は都議、衆議院銀を歴任した。1963年政界引退。

 松代温泉寿楽苑:現存する建物は昭和40年代頃という温泉旅館。源泉は個人所有であったが町に寄贈し、市町村合併で市の所有となる。東京在住だった主人が郷里が松代町ということでここで温泉旅館を開業した。二代目に引き継がれたあと、平成26年(2014)には宿泊をやめ、日帰り温泉のみになり地元民によく利用されたが、翌平成27年(2015)6月閉館。「黒猫大明神」の管理もおこなっていた(おこなっている?)。

黒猫大明神由来
黒猫大明神の由来
 古来より船に乗る人は、航海安全の魔除けと気象占いのために黒猫を船に乗せて航海したと伝えられています。
また、海軍の守り神として、船の先端に黒猫が飾られていたという説もあります。黒猫は厄除け招福の言い伝えのある
縁起ものでもあります。
 かつて日露の戦いで、連合艦隊司令官として勝運強く大勝利をおさめ、文武の偉人にして誉れの高い 東郷平八郎元帥(1847-1934)も、
黒猫を魔除けとして大変に可愛がっておられました。その愛猫の死後は、黒猫像を造り、邸内に安置して黒猫大明神として祀られていたとも
言われています。また、ご子息彪氏ともに、世界各国から、様々な黒猫像およそ二千五百体を、魔除けとして蒐集し、大切に保存しておられ、
その邸宅は「黒猫荘」と名付けられていました。
 ところが、第二次世界大戦終結後、ゆえあって東郷家より元衆議院議員故鈴木仙八氏がこれらの寄贈をうけ、元帥の遺志を受継ぎ、
これらの黒猫像を、村松氏の郷里である当松代の地に移置し、ここに元帥の遺徳を偲ぶとともに、「厄除招福」祈願のため、
1978年(昭和53年秋)、建立し、お祀りしたした次第です。
 尚、「黒猫荘」と名付けられた邸宅は、現在彪氏の母校東京農業大学厚木キャンパスに移築され、今も利用されています。

                     平成24年1月 黒猫神社 管理者 寿楽苑 村松啓


 ここで気になるのは「船に乗る人は航海安全を願って黒猫を船に乗せて航海した」というくだりである。オスの三毛猫を乗せたということはよく聞くが、黒猫というのは記憶にない。「船の先端に黒猫が飾られていた」という説も気になる。出典が何かは不明である。東郷平八郎は黒猫を飼っていたようだが船に乗せていたかどうかはわからない。東郷彪は昭和3年にふとした動機で黒猫蒐集を始めたとある(東郷彪 1934)。これは銀座で見かけて入手した猫が蒐集スタートのようである。はたして父親の影響かどうかはわからない。その後「黒猫趣味の會」なども開催した。
 なお、船に黒猫を乗せたという件に関してはレファレンス協同データベースに「船乗りが守り神として黒猫を乗せたという俗信について、由来や意味などを解説している資料はないか。」という質問がある。これに関して回答が寄せられているが黒猫に関しては不明である。詳細は下記リンク先にある出典図書を参照されたい。

    レファレンス協同データベースに「船乗りが守り神として黒猫を乗せたという俗信について、由来や意味などを解説している資料はないか。」

 我楽多宗には参加していなかった東郷彪であるが上記のように「黒猫趣味の會」など独自に活動はしていたようで多方面での交流があった。目呂二とも数多くやりとりをしており、黒いマネーキー猫など特注の黒猫制作依頼もしていた。もし昭和3年の件が事実であれば、目呂二との交友は昭和に入ってからということになる。以前目呂二ライブラリィで紹介された書簡も昭和8年のものであった。
 「黒猫大明神」にはかなりの数の黒猫が保管されているようだがすべてとは思えない。残りはどこへ行ったのか?目呂二作の2000体記念や藤田嗣治からのペルーの猫などは残されているのだろうか?戦後の混乱期だっただけに気になるところである。


黒猫荘は?
 それでは黒猫荘はというと画像を探してみたがなかなか見つからない。
 郷土秘玩第1巻2号(1932)に「麗かな黒猫趣味の會」という記事があり、集まった方々の写真があるが黒猫を前にした室内の写真であった。
 ホーム・ライフ(大阪毎日新聞社)1937年2号に東郷侯爵家の黒猫荘があるが図書館に出向くか複写依頼をしないとみることができない。したがって今のところ戦前の建物が写っている画像はみつけていない。ホーム・ライフは復刻版もあるようなので閲覧にいこうと思っている。なお、この雑誌の初期の頃は藤田嗣治が表紙を描いている。

 その後、建物は母校の東京農場大学厚木キャンパスに移された。厚木に移築後の画像は同大教授の丹羽太左衛門の業績を記録した次のPDFファイルの中にある。これで見る限りごく普通の平屋建ての建物である。
            「東京農業大学と共に」(昭和28年-昭和61年)33年の歩み



       調査継続中



    ねこれくと内の関連項目
             『追加資料 縁福猫の賛助者書簡と申込書』  1「目呂二の招き猫 縁福猫(いわゆる芸者招き)」内
             『河村目呂二の手紙展』   8「目呂二雑記」内の17

  ブログで見る黒猫大明神
     黒猫大明神 北さんのオフタイム
     「黒猫大明神」長野市旧東条村 牛歩村日記?
     衰退国家『日本』の神社を往く 黒猫大明神(長野県松代) ふじむらなつきの犬日記、たまに小話   (看板の説明文が掲載されています)
     黒猫大明神 信州ワンダラーズファンクラブ
     NAHKI Blog 黒猫大明神
     素晴らしき哉、我が人生 黒猫大明神


 参考文献
  吾が父を語る (東郷彪、 1934 実業之日本社)
  福の素第33号(日本招き猫倶楽部、2002 日本招き猫倶楽部会報)
  郷土秘玩 第1巻2号(1932 郷土秘玩者)
  猫の目呂二 その時代(山田賢二、1984 名古屋豆本)
  目呂二哀愁(山田賢二、1991 緑の笛豆本の会)
  官報 (国立国会図書館デジタルコレクション)