縁福猫(いわゆる芸者招き)の協賛者として名を連ねている初代水谷八重子氏は黒猫収集をしていたということだが、如何せん二代目水谷八重子さんの記憶にはまったくなく、猫好きということすら否定的であった。
今年の3月になって「ねこれくと」を見ていただいたFさんから情報が届いた。
それは次のようなものであった。
おろろ様 木子七郎氏のことを調べていたら、「目呂二ミュージアム」に行きあたりました。 その中に黒猫収集家としての水谷八重子氏のことが出ておりました。 私の持っている葉書の中に出て来る「八重子」氏のことであろうと思うので、添付いたします。 何かのご参考になれば幸いです。 葉書は、招福子(招き猫収集家、建築家木子七郎氏)が撲満子(撲満=貯金玉収集家、小島勇之助氏)に 送ったものです。 |
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葉書の画像を送っていただき、その後さらに黒猫に関する追加画像をいただきました。掲載に関しても許可をいただきましたのでご紹介したいと思います。
木子七郎氏に関しては以前にも紹介している建築家ですが、小島勇之助氏に関しては今までに名前が出ていません。貯金玉(貯金箱:昔よくあった土製でお金が貯まったら割って出すものです)の収集家とあります。ネットで調べてみると切手収集家であった小島勇之助が同一人物ではないかと思います。
くずし字になれていないので文面すべて読み取れているわけではありませんが、葉書中にもあるように三尺二寸(約97cm)の大黒猫が初代水谷八重子氏のところに行っているようです。八重子としか書いてありませんが収集物や人脈を考えていくと初代水谷八重子に間違いないと思います。さすがに1mの大猫となると手に余るようです。
東郷彪のコレクションについても触れられています。
昭和7年2月14日 (拡大する) | 昭和8年2月20日 (拡大する) |
これまで出てきたいろいろな情報から見てやはり初代水谷八重子氏は黒猫を収集していたということは事実のようです。
当時黒猫収集に関しては東郷彪氏と水谷八重子氏は有名だったのかもしれません。
東郷豹氏は黒猫は収集しても、実際の生きた猫はというとまっぴらだったと聞きます。もしかすると初代水垣八重子氏も同じだったのかもしれません。しかしこれだけ収集家として有名なら、二代目水谷八重子氏の記憶にありそうですがまったく記憶にないということはどうしたことでしょうか。
考えられることは、二代目水谷八重子氏は1939(昭和14年)生まれ。終戦の年でまだ6歳です。日中戦争から太平洋戦争と戦時下では猫収集どころではなく、さらに初代水谷八重子は私生活でも1937年(昭和12年)に結婚して家庭でも忙しくなったことでしょう。そのようなことから昭和の初期で黒猫の収集も終わったのかもしれません。そう考えると二代目水谷八重子さんの記憶に猫がないというのも合点がいきます。
気になるのはその収集品の行方です。東郷彪氏のコレクションはすべてではないでしょうが現在でも保管されています。猫ではありませんが先の小島勇之助氏の貯金玉はくず屋に引き取られ散逸してしまったと聞きます。木子氏と水谷氏のコレクションはどうなってしまったのでしょうか?目呂二と同じく戦災で失われてしまったのでしょうか?
その後黒猫に関して追加画像が届きました。
昭和8年2月22日 (拡大する) | 昭和8年5月16日 (拡大する) |
ここにも黒猫荘の東郷彪氏の名前も見られます。
ところで黒猫荘の銘は入った茶碗はつくられまた現存するのだろうか?
貴重な葉書のご提供をいただいたFさんにこの場を借りて御礼申し上げます。
まだまだ世の中には隠れた情報がたくさんありそうです。特に同じ人物に興味があっても視点が違えば見方も変わります。
これからさらに情報が集まってくることを期待したいです。