目呂二の猫たち
玉の肌の玉ちゃん
玉の肌石鹸の販売促進キャラクター?の玉ちゃん。
玉の肌石鹸とは明治25年(1892年)に現在の墨田区緑に「芳誠舎」として誕生し、化粧石けんの製造を開始して以来、1世紀以上にわたり石鹸の研究・製造・販売を続けている石鹸の専業メーカーです。高級石けんの受託生産もおこない、世界的なブランド商品の製造も数多く手がけているのだそうです。現在も同じ墨田区緑で玉の肌石鹸株式会社としてオリジナルブランド「TAMANOHADA」を立ち上げて、研究開発や製造販売をおこなっています。
この玉ちゃんは明治25年の創業以来100年以上にわたって石鹸の研究と製造販売をしている玉の肌石鹸(株)が「芳誠舎」と称していた頃のものです。左下の玉ちゃんは手元で玉を転がしています。また絵の中央に切れ目があります。もしかするとこれは石鹸のパッケージかもしれないと考えましたが残念ながらいったい何に使われた絵なのかはっきりしたことはわかりません。
下中央の写真は玉ちゃんが玉の上に乗っています。台には「株式会社芳誠舎 玉の肌石鹸」と書かれています。玉には「玉の肌 ○○○○」とありますが、残念ながら文字なのか記号なのか判読できません。
玉ちゃん パッケージ? | 玉ちゃん |
台の文字 | 玉の文字 玉の肌の下はただの○が4個かもしれない |
玉の肌石鹸(株)という会社があることは知っていましたが、会社のHPをみて驚きました。丸い石鹸を製造していたのです。これは知りませんでした。しかもこの丸い玉の肌石鹸はかなり前から製造していたのです。玉の肌の玉ちゃんだから玉を転がしたり、玉の上に乗ったりしているのかと思っていたのですが、玉ちゃんが転がしていたのはまさに「玉の肌石鹸」そのものだったのです。そして玉ちゃんが乗っていたのも「玉の肌石鹸」だったのです。したがって判読不能だった文字はおそらく当時の石鹸に書かれていた文字と同じであることが容易に想像できます。
現在でも「玉の肌石鹸」はさらに進化して製造販売されています。ぜひ「玉の肌石鹸」のHPをのぞいてみてください。(現在リンク申請中。戦災で大きな被害を受けた地域ですので、おそらく資料は残っていないと思いますが、この玉ちゃんに関しても何かわからないか問い合わせてみるつもりです。)
なお、残されていた資料の中から今回見つかった玉ちゃんの写真は清原ソロさんも初めて見るものだそうです。
加筆(2006年6月9日) リンクの許可が出ましたので、玉の肌石鹸(株)のHPトップにリンクを張らせていただきました。 http://www.tamanohada.co.jp/ のSKIN SHIPで丸い玉の肌石鹸のブックレットを見ることができます。 玉の肌の玉ちゃんは古い職員の方にも何かわからないか聞いていただきましたが、残念ながらわからないとのことでした。 加筆(2006年6月25日) 目呂二は明治11年(1878) 創業の大手化粧品会社、平尾賛平商店(昭和24年(1949) レートに社名を変更)に就職しましたが、玉の肌石鹸の「芳誠舎」は別の会社です。清原ソロさんによれば、この玉の肌石鹸の仕事は平尾賛平商店を退職後ということで、当時の社長が同郷ということで意気投合し、ポスターの作成や製品の装丁などをおこなったのだそうです。 |
追加画像(2006年7月17日)
目呂二作 玉の肌葉緑素石鹸ポスター
大きい画像へ |
ポスターの左下に目呂二のサイン?があります。これは「買ひねこ」の中でも使われています。
加筆(2010年11月1日) 玉の肌石鹸の玉ちゃんの正体 これは日本油脂工業会主催で昭和29年に日本橋三越で開催された「石鹸彫刻展」の作品のひとつであることが、残された資料を風呂猫の調査により判明した。ただ目呂二がどのような形で制作に関与したかは不明。 謎のサインの正体 ポスターにあるサインは夏の目呂二展に出品された資料から五線に音符をデザインしたものであることが初期の作品からわかった。雑誌の表紙や装丁など大正初期のころの作品でははっきり音符であることがわかるが、時代と共にデフォルメされ、図案化されていった。ちなみに上にある3つの点が音符のたまにあたる。なお、初期のころはMELODYのサインが入る。 |
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目呂二人形
目呂二人形と呼ばれる叙情人形が制作販売されました。大正年間のことで顔は目鼻立ちがくっきりして、明らかに郷土玩具の土人形とは異なるものでした。もともと竹久夢二に傾倒し、「目呂二=メロディ+夢二か」という名前からもわかるように、夢二の絵から飛び出してきた女性を目呂二流に立体化したような作品でした。ただ夢二の女性に比べると遙かに健康美にあふれた女性達でした。現代風に言えば大正時代の「フィギア」だったのかもしれません。ここで使われている明るい緑色は招き猫でもよく使用されている色のようです。
芸者招きの手前にあるのは小型の目呂二人形と思われる。 右の方にあるのは百猫頒布会で頒布した郷土玩具等のミニチュア |
目呂二人形 |
前述のように、もしかすると芸者招きは目呂二人形の延長線にあるのかも知れません
目呂二人形追加(2006年7月17日)
構造社展に出品していた中の三作品の画像をいただきました。「カメラ」は構造社展のパンフレットでは「鴨川」となっていました。
画像をクリックすると大きな画像へ | ||
びんほつ | カメラ | 題不詳 |
目呂二の「写生人形」(2009年5月6日)
昨年、ネットオークションで目呂二の写生人形を入手しました。添付されている案内を見ますと三紫会というおそらく創作人形の趣味の会で頒布されたものと思われます。オークションでは同時に何点か作家ものの創作人形が出品されました。木目込み人形あり、陶人形ありと作品群はかなりバラエティーに富んでいました。文面から見ると彫塑では確固たる名声を得た1930年代の作品と思われます。博多人形などにつながる写生人形の元祖として依頼されたことがわかります。
もちろん同人に頒布するため、ある程度数を制作しているはずですので、目呂二自身が制作したのか、元の型だけを目呂二が作って、量産したのかはわかりません。これまでの目呂二人形の女性や猫作品とはかなり趣が異なります。銘がないかと思って探しましたがありません。「日南」という題もよくわかりません。しいてこじつければ、カツオの1本吊りで有名な日南ということでしょうか。釣り上げている魚はカツオににています。釣り竿も糸もオリジナルのようです。
この作品が目呂二の作品かどうかの真偽はともかくとして、依頼に対しこのような作品を制作したことは事実として記録しておく必要があると感じます。
拡大する | 「「森八」昭和33年9月11日 |
なお、箱に手がかりはないかと思ったのですが、昭和33年の「森八」のスタンプが押してあります。住所や電話番号もありますので調べてみると、吾妻橋近く新東京タワーを建設中の業平に現在もある和菓子店でした。お菓子の箱を保存用にしていたようです。
目呂二の『日南』その後 (2014年8月7日)
魚釣りのこどもはやはり目呂二の作品ではなかったということが結論である。
2014年7月4日から9月7日まで栃木県の那珂川町馬頭広重美術館で『福を招く!猫じゃ猫じゃ展』が開催された。出品者からいただいた図録になんと『日南』が掲載されていた。
今回の目的はこれが最大の目的であった。
残念ながら7月31日から8月2日まで那須に出張であった。しかし悲しいかな抜け出すことはできない。特に8月2日(土)は夏目房之介氏の記念講演が開催された。聞きに行けなかったのは誠に残念であった。しかも目呂二関係の猫の展示は前期の8月3日までであり、後期は展示が入れ替わる。何とも慌ただしいことではあったがまたまた出張から帰った翼8月3日に那須まで出かけることとなってしまった。
猫じゃ猫じゃ展ポスター | いただいた招待券 | 図録 |
問題の『日南』であるが、縁福猫(いわゆる芸者招き)の横に展示してあった。当日の展示は人形だけである。この3枚の画像は後日出品者よりいただき許可を得て掲載したものである。
目呂二の署名が入った桐箱も残っていた。箱書きにははっきりと『日南』の墨書きがある。
目呂二の署名が入っている |
桐箱に入った女性の人形 |
猫は着物の柄かと思ったが抱きかかえられているようだ |
この緑の着物の色は目呂二人形でよく使われている色だ。右脇下に白黒の猫がいる。最初は猫柄かと思ったが立体的なので女性に抱きかかえられた猫のようだ。抱きかかえられた猫がもがきながらはいだしてきたような愛らしい作品だ。大きさは数cmの小品であるが目呂二人形に猫が描かれていたものは他にあっただろうか。
日南の名前の由来をうかがおうと思ったが残念ながら学芸員の方は不在で聞けなかった。残念である。
とりあえずこれで長年の懸案であった『日南』問題は解決したようである。
先にも書いたように同時に多数の人形作家物の作品がネットオークションに出品された。きっと持ち主が亡くなり処分されたのであろう。興味や知識のないものだといっしょにあった解説書がその作品のものだと思っても仕方がない。どこかで作品と解説書が入れ替わってしまいそのまま出品されたのだろう。
しかし解説書に関しては『日南』のものに間違えないだろう。これはこれで貴重な資料になるはずだ。
ところで小型の博多人形のようなこどもはいったいだれの作品だったのであろうか。
絵馬
目呂二は絵馬を形取った五角形の枠の中によく絵を描いています。
下の写真は実際に木の枠に描かれた招き猫で実際に奉納するためにつくったのかどうかはわかりません。アトリエの写真を見ると棚の上に絵馬が並べてあるので自分用に製作したものかもしれません。
モデルになっている郷土玩具は白地の斑点にトラ模様で三河系と思われるがどこの産地化は不明。
仙客満来 | 福萬年喜 |
鍋ぶたにしゃもじ
こんなものも猫にしてしまいます。自性院には鍋ぶたに描かれた猫が残されているといいます。掲載許可が得られましたら、載せたいと思っていますが、その鍋ぶたの猫は四天王寺の猫門の猫のように丸くなって座っており、『寝こ寝こと笑う門には福来る』と添えてあります。
参考 十数年前に自性院で正月にもらった、手ぬぐい。 中央には河村目呂二が戦前に直径20cmほどの鍋蓋の裏に彫って残した猫と言葉。 『寝こ寝こと笑う門には福来る』 実際の鍋蓋の裏の絵では口の下のクルッと巻いたところは鈴になっている。また背中にも頭と同じように黒い斑がある。また目は細目ではなく丸目になっている。彫られている文字も上記のとおりで手ぬぐいの 『猫こ猫と笑う門には福来たる』とは異なる。 目呂二は他でも「猫こ猫こ(にこにこ)」を使っているのでこちらの方がぴったり来るように思うのだが、なぜ上記のような表現をしたのだろうか? |
下の画像は所有者はおそらく痴娯の家であろうと思われます。
小さな鍋ぶた?に描かれた芸者招き | しゃもじに描かれたクロネコ |
目呂二の郷土玩具
目呂二の愛蔵品?
目呂二は戦前、蒐集した多くの猫を自性院に奉納したが、ほとんどは戦災で消失してしまいました。Uさんが調べてみたところ、収蔵品から郷土玩具が3点出てきましたと報告を受けました。目呂二の愛蔵品ではないかとのことです。
@は黒猫でネズミを押さえています。これは趣味の猫百種にも入っており、お気に入りだったと考えられますが、残念ながら、現在制作されておらず、産地も不明です。
Aは明らかに富山土人形と思われます。富山特有の膠の多さでかなり剥離が進んでいます。顔は加州猫に似ています。同じところで制作されたのかもしれません。郷土玩具に詳しい方に見ていただきましたが、富山だろうとのことでした。
Bは有名な瀬戸焼きの親子ネコです。水滴になっているかどうかはわかりません。
@ 博多(土)人形 | A 富山土人形 | B 瀬戸焼 親子ネコ |
「趣味の猫 百種」
「趣味の猫百種」は1927年(昭和2年)4月に目呂二自らが制作して頒布したもので、招き猫や郷土玩具に限っていないので猫のフィリックスや猫のミイラ(の入れ物)?なども含まれています。そうは言っても郷土玩具が主体で現在でも制作されているものもありますが、かなりのものは廃絶してしまっています。
当時の頒布会の栞(チラシ)には以下のようにあります。
頒布会のチラシでもわかるように、会員制をとっての限定制作・販売だったことがわかります。はたして何組くらい制作されたのでしょうか。
@長崎 | A多摩張り子(八王子) | B多摩張り子(八王子) |
C越谷張り子 | D花巻人形 | E富山土人形 |
F富山 | G今戸人形 | H金沢張り子 |
I鴻ノ巣練り物 | J鴻ノ巣練り物 | K琉球 |
L紐育(ニューヨーク) | M堤人形 |
この項目は情報量が増えてきたので新たに『趣味の猫 百種』としてジャンルを新設しました。
メニューページからどうぞ。(2009年6月1日)
自性院の猫
現在、自性院(東京都新宿区)の前には大きな石でできた招き猫があります。しかしこれは戦後の奉納されたものです。戦前にあったという目呂二が奉納した招き猫とはどのような招き猫だったのだろうか。当時構造社展に出品した作品なのだそうだが、写真を見かけたことがありません。開眼式のようすが当時のどこかの雑誌にでもされていないだろうか。芸者衆が繰り出して猫踊りをしたりと当時かなり話題性はあったと思われます。はっきりした年月日がわかれば、新聞を調べることもできるはずです。
またどのようないきさつで猫の像や多くの郷土玩具の猫が奉納されたのかいきさつもこれからの課題です(どこかで聞いたことがあるような気がするのですが、文献は出てきません。猫地蔵と関係があったことは予想できますが)。
そのようなことを考えていると、Uさんから資料が届きました。
1933年(昭和8年)9月に第7回構造社展に出品した十五点の中の一点です。体長は三尺五寸あったといいますから1m以上になります。この猫が後に自性院に設置され開眼することになります。
目呂二のふるさと岐阜県のNさんから情報が届きました。その情報によれば、「自性院の猫について、山田賢二著「猫の目呂二 その時代」(名古屋豆本 1984年)という本があり、その中に次のように記述されているそうです。
「目呂二作品の中でも第七回構造展に出品した『猫寺供養塔の猫』は代表作の一つ、葛ケ原の自性院(通称猫寺)で昭和八年十月六日、永潤和尚によって開眼法要が行われた。そぼ降る雨ではあったが目呂二の蒐集した三万余点の猫も納められ、三百人あまりの講中御詠歌繰込みをはじめ、猫とは相性の烏森や新富町の芸者衆まで繰り出して、猫じゃねこじゃを踊り抜いたと伝えられている」 |
「また豆本の扉には『第七回構造社展出品作を原型として猫寺供養塔の上に安置された』という猫の写真が掲載されていますが、その写真は残念ながら招き猫ではないとのことです。」と情報をいただきました。
※奉納された猫の数はたしか三千点だったはず
これらの情報を総合すると、
「1933年(昭和8年)9月1日〜11日まで開かれた第7回構造社展に出品された「猫」が同年10月6日自性院で開眼法要が盛大に行われ、その際に目呂二の蒐集品の猫もいっしょに奉納された」と言うことになります。
第7回構造社展品覧会出 (猫寺供養塔の猫) 河村目呂二氏作 右の書き込み 猫寺境内設置 ○○○ 体長三尺五寸 これは自性院に設置する前の写真と 思われます。 木があるので野外のように見えますが、 猫の置いてある台座は石ではなく 布を貼ったような形跡が認められます。 また後方に額らしきものが見えています。 |
さすがに彫刻家が制作しただけあって、猫のかわいらしさというよりは”魔性”を感じます。鋭い眼光はすべてのものをお見通しといった感すらあります。しかし何気ない猫の姿ですが、人の心を読み取っているようなちょっと小首をかしげて見つめるポーズはやはり猫好きならではの目の付け所のように思います。
当時はまだ寂しい場所であった当地で、薄暗くなったときこの猫と目が合うと、きっとドキッとするような迫力があったと思います。
寺の前でなく、美術館にあればきっと今でも見ることができたのでしょうが、戦争と共に供出されてなくなってしまったことは惜しまれます。
記憶がはっきりしませんが、たしかはじめて自性院を訪ねたときだったと思います。対応して頂いた方(たぶん自性院の方)は小さい頃、目呂二に遊んでもらったことがあるとのことでした。みなさん高齢になってきたとはいえ、まだまだ当時の河村目呂二を知る人は多くいます。そのような関係者からこの猫や奉納されて戦災で失われた招き猫のことなども伺えればと思います。