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※ソロさんは清原ソロで紹介されることが多いが、まだ結婚前であったため河村ソロを使用した
清原(河村)ソロ 1923(大正12年)10月26日-2023(令和5年)9月24日
関東大震災直後に目呂二とすの子の長女として生まれる。昭和16年川村女学院卒業、昭和18年東洋音楽学校(現東京音楽大学)声楽科卒業、同東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ専科修了
昭和19年追分に疎開、追分小学校の助教となり、以降音楽教師となる
昭和23年軽井沢町生まれの清原健司※1と結婚後、東京に戻り音楽教師を続ける。なお、文献の紹介文の中には音楽特異児童研究とある
経営心理学講座第4巻(1963)では「視覚的広告のデザイン コマーシャルソングとBGM」を清原健司と共著で発表している。
目呂二とすの子は美大出身で多くの作品を残した。しかし二人の一人娘であった「河村ソロ」さんは音大を卒業して教師となり一般人であるため土人形などの作品は残していない(と思われる)。もしかすると創作活動していた両親の影響を受けて子どものころ創作をしていたかもしれない。清原ソロ(2003)には『石鹸や菓子などの空箱をつなげて、お人形さんごっこの部屋を作ったり、奇麗な包み紙をとっておいてもらい、千代紙と一緒に「あねさま人形」を作って遊んだものである』と記してある。戦後は目呂二のラフターなどの制作の際に清原健司とともに手紙のやり取りを残している。
河村目呂二の手紙展
※1清原健司 早稲田大学教授(心理学) 医学博士(1918(大正7年)4月26日-1977年(昭和52年)8月31日
最近になって河村ソロ作の紙雛を入手した。まだ結婚前の昭和21年(1946)に知り合いの子どもの初節句に贈ったもので22歳の時の作品だった。まだ終戦から半年ばかりの物資の乏しい時代に千代紙などを使用して手作りで紙雛を作り、朝鮮土産?の菓子箱に入れて贈っていた。
郷土玩具関係の団体の副会長で自らも骨董を扱う店を開いている方から入手したが、かなり前のことで入手経路はわからなかった。贈った先も判明しているがここでは扱わない。
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| 表面 | ||
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| 裏面 | ||
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| 髪を作っていた材料の劣化が激しく撮影しようとしたら破損しその断片は粉末状になってしまった 初めて受け取ったときは問題なかったはずだし、小灯にも持参している おそらく薄葉紙にくるんだ際のわずかの力で破損したと思われる これだけ激しい劣化は酸性紙でも見たことがない どのように保管したらよいか思案している なお破損前の画像を拡大復元したのが下の画像である 着物や帯は千代紙でできている |
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| 男雛は破損がないが髪は女雛と同じ材質でできているので要注意 着物は千代紙だが袴と帯は彩色されている |
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| 物のない時代に自作で贈った紙雛だが、子どものころに菓子箱などで遊んだり、 姉様人形を作ったスキルが生きていると思われる |
| 破損前の女雛 | |
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| 出品された時の画像を拡大してつなぎ合わせて合成している 女雛の髪はこのような形状であった |
参考文献
目呂二抄(河村目呂二、1974 アポロン社)
おばあさんの雑記帳(清原ソロ、2003 私家版)
猫の目呂二 その時代(山田賢二、1984 名古屋豆本)
目呂二哀愁(山田賢二、1991 緑の笛豆本の会)
ねこの先生 河村目呂二 改訂版(荒川千尋・板東寛司、2024 風呂猫)
経営心理学講座第4巻(製品計画と広告の心理学)(兼子宙 等編、1963 ダイヤモンド社) 清原健司と清原ソロ共著
早稲田心理学年報第10巻(早稲田大学文学部心理学会編集委員会、1978 早稲田大学文学部心理学会)
在朝鮮日本人画家とツーリズム(喜多恵美子、2020 大谷大学学術情報リポジトリ)
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