三光稲荷神社を散策する
                                     2022年11月12日
                                     2022年12月 9日

 前回の訪問は2001年10月だったので、すでに20年以上前のことになる。
 今回掲載するにあたり、そこで資料とするため当時の訪問(偵察)記と一部重複する。部分がある。

東京の迷信 (「東京朝日新聞」連載)東京の迷信 (「東京朝日新聞」百回連載。明治40年11月3日〜明治41年2月16日)

(三十八)▲三光(くわう)稲荷(犬猫の病)
日本橋区長谷川町の横町に三光稲荷といふものがある、稲荷様が犬猫の病を治すといふのが変つてゐる、芸妓子供折々参詣するさうだ、所が近来犬ころや猫子を境内へ捨る者が多いので、神官大に面喰つて「境内へ犬猫を捨ること無用」といふ掲示を出した、堂の周囲(まはり)には犬と猫の額面が隙間もなく打付けられてある。
                                        (「東京朝日新聞」明治40年12月12日)

                     日本文学学術的電子図書館 J-textより     http://www.j-text.com/meiji/meishin.html (リンク切れ)
 菊池眞一氏のサイトにあるかもしれませんが見つけられていません


現在は次のところで見ることができます。(三十八) 三光(くわう)稲荷(犬猫の病)
 開運招福ウェブ 明治時代の迷信集100選

猫の民俗学(大木卓、1979増補 田畑書店)より引用すると

猫稲荷 内田百闔≠フ「ノラや」(1957)所収の来信によると、東京日本橋の玄治店(今、人形町三丁目二の路傍に碑あり)の近くに三光様という稲荷社があって昔迷い猫の帰る御祈?をしていたそうで、このお稲荷さんは戦前猫絵馬で知られていた三光稲荷のことです。絵馬研究家北条時宗氏(「ねこ」二十六号、1961)によると、この日本橋掘留の三光稲荷では戦前まで招き猫の絵馬をあげて猫のこと一切の祈願をし、”三光新道のニャン公さま”と愛称されていたとのことです。大正七年郷土趣味社刊の「絵馬鑑」第二之三の、ここの猫絵馬を図解して、日本橋区三光新道、目抜き通りにあると記してあります。今(1973年)三光稲荷神社は東京都中央区日本橋掘留二丁目八の人形町通りの横丁の奥に戦後建った社殿がありますが、もう猫絵馬の俗信はないらしい。
 このような猫の帰還を祈るお稲荷さんは方々にあるようで、幕末から明治中頃に至る見聞を記した「浪華百事談」という書物に、大阪西長堀(大阪市西区)に猫稲荷の祠があってその信仰があったことが出ています。

 三光稲荷は本来は犬猫の病を治すのを祈願していたのが、いつの時代もあるように「捨て猫、捨て犬」の神社となっていったようである。いつのころか失せ猫の祈願も加わり、すっかり昭和にはいると「猫がいなくなったときには・・・三光様」となっていったようで、やがて猫専門になってしまったらしい。明治の終わりころはまだ犬・猫の時代だったようである。そのころは堂のまわりには額面が隙間なく打ち付けられているということだった。
 猫の古典である「猫」(石田孫太郎、1910 求光閣書店)には失せ猫のまじないは掲載されているが失せ猫祈願の神社に関しては記載がない。

 20年ほど前の訪問時に何か招き猫関連のことがないかと探してみたが戦前の絵馬が奉納されていたころの面影はまったくなかった。さらにこの近辺の小さな神社は神主はふだんはおらず、祭礼など特別なときだけみえて神事をおこなうということでこれは今も変わっていない。前回訪問時は御朱印もないとのことだったが、現在は代理店?で御朱印の授与や失せ猫祈願はできる。また失せ猫祈願に関連してか招き猫(猫)を奉納する棚も設置されている。

 今の三光稲荷神社は人形町通りから一本裏の道の近くにある。ビルに囲まれとなりの駐車場がなければ埋もれてしまいそうな場所にある。そこから人形町通りまでの細い道が三光新道(さんこうじんみち)という参道になる。なぜか読み方は「じんみち」と濁るそうだ。ただしかつての三光新道とは位置が異なっている。火事や震災、区画整理などによって三光稲荷神社自体の位置も変わってしまっている。現在の場所に移転したのは昭和8年(1933)とのことであった。



  三光稲荷神社  東京都中央区日本橋堀留町2丁目1番 13号      


三光新道(さんこうじんみち)入り口 
人形町通りの反対側



 三光稲荷の位置は江戸時代の遊郭吉原(元吉原)の周辺に当たる場所である。しかし明暦の大火((1657)により吉原は浅草方面に移転してしまった。
 また大正12年(1923)には関東大震災にも罹災して焼失している。翌年再建され区画整理によって長谷川町と田所町が合併し、それにともない田所稲荷が合祀された。さらに昭和8年の区画整理により現在の地に移転(遷宮)した。したがってかつての三光新道や神社の位置は現在とは異なっている。その後の太平洋戦争の戦禍は免れたようである。

三光稲荷神社の由緒には諸説ある。
 「三光稲荷は「はせ川町、三十郎稲荷」がもととなっているといわれている。中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎(二代目)の屋敷内に勧請されていたので「三十郎稲荷」と呼ばれていた。関三十郎が演技中、場内に霊光のごとき閃きがありこれは神明の加護によるものと、自分の「三」と「光」の二文字をとって「三光稲荷」と称した。これを長谷川町の建石三蔵(三木綿問屋)が庭内に安置し、町内の氏神として奉安(祀った)した」
あるいは
 「江戸初期に絹布問屋田原屋村越庄左衛門と木綿問屋建石三蔵の両家が海岸の埋め立て、貸家を建てて大家主・大地主となった。そこで天の光、地の恵み、人のお陰に感謝して鎮守として三光稲荷大神を祀った」
などである。

 猫に関しては「三十郎稲荷には猫が寄る」との風説(うわさ)から失せ猫祈願に繋がっているようである。ただし犬猫の病治癒祈願との時代の前後関係は不明である。猫に関係してか鼠除けの守り札(護符)も授与していたようである。


三光稲荷神社
江戸明治東京重ね地図より(江戸時代)
江戸明治東京重ね地図より(現代)
嘉永3年(1850)日本橋北内神田両國濱町明細絵図  江戸明治東京重ね地図より 
江戸明治東京重ね地図より(江戸時代)  三光稲荷南方面
いずれも江戸明治東京重ね地図((株)エーピーピーカンパニー)から引用している。
切り絵図は嘉永3年(1850)と幕末なのですでに元吉原はない。
三光稲荷南方面地図の有馬邸あたりが現在の水天宮の位置にあたる。

人形町通り反対側の参道口 商業地域だけに強きな価格  
ビルに囲まれた場所に神社はある。
30坪足らずの敷地で
となりの駐車場がなければ
まさにビルの間に埋もれて
しまうことになる。


阿吽の狛犬が守る   社殿前の鳥居
「吽」 阿吽の狛犬が守る  「阿」
 
右の樹木の後に何か碑が 手水鉢  
木の陰に隠れていた碑は
昭和39年9月の
増改築記念の碑だった。

関東大震災の時、
神職がご神体を持って避難したが
その後どこへいったか不明になっていた。
戦後の昭和26年になって
福島県の三春で見つかり
ご神体は無事戻った。
発起人の中にその当時、
三春を訪ねた方と同姓の方が
名を連ねている。 
増改築碑  
  
三光稲荷神社由来書き
震災後の区画整理による町の合併のため三光稲荷神社では三光稲荷大神と田所稲荷大明神が祀られている。
三光稲荷は旧長谷川町の守護神で田所町の守護神の田所稲荷と共に奉祀されている。 
社殿前には正面に「三光神社」の社額。
旧日本橋区長谷川町の
守護神であったことがわかる。
     
社額 神田神社宮司による社額


失せ猫祈願の三光稲荷神社    
社殿の左側には猫を置く棚がある。
これは失せ猫祈願のお礼のようだ。
この棚は以前訪問したときにはなかった。
由来書   奉納された猫たち
豪徳寺の招福猫児もある   奥にいるのは犬か? これは鴻巣練り物
招き猫が多い これもお礼 失せ猫祈願と御朱印
失せ猫祈願は近所の「オキナ」の店舗で
おこなっている。御朱印も同様。
 
            失せ猫祈願  


神社の隣にある社務所のような建物は
「堀留町二丁目町会事務所」とあるので
社務所も兼ねているのだろう。
ふだんは宮司はおらず、
失せ猫祈願や御朱印は
人形町通りにあるコスメティックストアの
「オキナ」で扱っている。
したがって店の休業日は
取り扱いができない。
左の建物が町会事務所   町会事務所
賽銭箱には昭和30年とある。
社殿の左側には奉納額がある。
大正14年11月とあるので
震災後、再建時のものかもしれない。
(後述へ)
社殿正面 賽銭箱  
  
社殿正面の奉納額  昭和廿四(1949)年九月とある   
  
社殿脇の古い奉納額   
 
大正十四年(1925)十一月とある  


人形町通り入り口 失せ猫祈願などを受け付ける「オキナ」  こちらの入り口には碑が建っている
人形町通り側の三光通り入り口には
「三光稲荷神社参道」の安山岩に彫られた
碑が建っている。
これは昭和29年(1954)に失せ猫祈願で
猫が戻ってきたお礼に建てられたものだ。
碑の裏にあるある建立者の
三島徳七(1893−1975)は東京帝国大学の
教授で、アルニコ磁石のMK鋼の発明者であり
文化勲章受賞者である。二三子はその夫人。
「喜多川豊作」あるいは「喜多川豊」は
昭和26年にご神体が三春で見つかった際に
現地訪問した方の可能性が高い。

「関田○○」は書家であろうか?
残念ながら篆刻文字は読めない。
 
「関」の文字は読めるが・・・ 昭和29年(1954)1月に奉納された 
  「オキナ」 三光稲荷神社の御朱印
後日オキナが店を開いている平日に訪問して 御朱印をいただいてきた。
その際にいろいろとお話もうかがった。

このあたりの小さな稲荷は神職が常駐しておらず、
三光稲荷では祭礼の時などは鉄砲州稲荷神社から神職が来るという。
鐵砲州稲荷神社 中央区湊1−6−7   右写真)

昭和20年の東京大空襲の時も火の手は三光稲荷神社までこなかったようだ。
そういえば鉄砲州神社から学校に通っていた父親は空襲の時、
隅田川に飛び込んだが鉄砲州神社あたりは火災から免れたという話をしていた。
存命中は初詣に行っていたが、その周辺には比較的古い建物も残っていた。

このあたりの関東大震災や東京大空襲の被害に関しては
中央区史あるいは日本橋区史や京橋区史の歴史を
調べてみる必要がありそうだ。
 
 鉄砲州稲荷神社境内


三光稲荷神社の古絵馬  
現在は絵馬はないが、
かつてはたくさんの絵馬が
奉納されていたようである。
左の画像は絵馬の研究家である
北条時宗(じしゅう)による
肉筆写生図集の
「東京小絵馬集」(1939)より


インスタグラム@kaikosuzua より
上記肉筆写生図集

同インスタグラムより 
「小絵馬図蒐」
(北条時宗 木耳社 1984)より  

明治末期とある
現在でも絵馬を頒布すればかなりの失せ猫祈願がありそうだが
狭い境内なので絵馬であふれかえってしまいそうだ。
 
ネットより
大正時代の絵馬と思われる
コレクターの旧所蔵品か
掲載許可を取っていないのでご連絡いただければ正式に申請いたします 



 帰り道、近所を歩いているといろいろおもしろいものに出会えます。

秋葉原方面の岩本町に向かって
歩いて行くと途中に
型染めの注染の会社があった。
外に型紙が展示してある。
注染の戸田屋 外に展示されている型
兎が招いている。福兎という図柄らしい。


さらに歩いて行くと十思指公園がある。
向かいの大安楽寺は
伝馬町の牢屋敷で処刑場だった場所。
福兎の型 十思(じっし)公園
大安楽寺 江戸伝馬町処刑場跡の碑
さらに進んでいくとお玉ヶ池跡にある
繁栄お玉稲荷がある。
ビルに囲まれた小さな稲荷で、
かつてここには桜が池という
大きな池があったそうだ。
お玉ヶ池跡の「繁栄お玉稲荷」


 今回の訪問はここで終了。しかしいくつも気になることが出てきたのであらためて調べ直すことにした。(続く)

         2001年10月の訪問記「=^・^= 三光稲荷神社に偵察にいく」



 なお三光神社は猫雑誌「猫びより」2001年冬号にもちょうど失せ猫関係の神社として紹介されていました。(訂正 2002年冬号でした)


住居表示の変遷に関しては次のサイトが詳しい  http://www.nihonbashi.gr.jp/history/history_12.html リンク切れ